自傳:まず始めに

私は、よく「侠客のような風格がある」と言われる大学教師で、幼い頃から、誰かが弱いもいじめをされていたらその子を助ける、といった心の優しい子供だった。小学生の時は学級委員以外にも、ドッヂボールチームのキャプテンも務めたこともあった。中学生の頃には、方向音痴だったため、入学初日で迷子になり、タクシーの運転手に助けてもらう、なんてこともあった。学業のプレッシャーの中でも、卒業時には優等生の賞をもらった。

 高校の統一試験(日本でいうセンター試験)では、小論文(題名:「推動搖籃的手」)でミスをし、悲しみのあまり、家出をした。しかし、一回挫折を味わい、立ちなおしてからは色々と頑張った。再度クラス委員になったり、体育祭の円盤投げ競技で優勝したりした。

幼い頃から医師になるのが夢だったが、作文での入賞をきっかけに、将来の方向を見直し始めた。また、同年の春、学校の先輩が性犯罪に遭ったことから、その後「性教育」の推進に携わることを決意した。

大学在学中当時は、校内がよく深刻な洪水に見舞われたため、生徒は水泳ができることが必須だった。私は4年間で一生懸命練習した。また、クラスメートには私は将来校長になると思われていたが、残念ながら大学院受験に失敗したため、田舎に戻り、ボランティアをすることにした。

 ある日原住民の集落を訪れたときのこと。タクシーが山奥で止まり運転手が車から出て行った。私はその当時、原住民に対してマイナスの印象しか抱いてなかったので、山中でいきなり車を停められ、とても恐ろしく思ったが、運転手は茂みの中から戻ってくると彼は私に意外にも桃を渡した。この思い出は私にとって一生忘れられないものになった。

大学院在学中、国際事務の勉強に励み、国内初の日本研修の機会を手に入れた。5年後、国の奨学金をもらいながら、大学院生学会や国際ボランティアに何度も参加し、アメリカ大学婦人協会(AAUW)で世界平和賞を受賞した。

しかし、台湾に帰国しても当時は博士号取得者ですら就職は難しく、教育学界に残る選択肢しか残されていなかった。それまでずっと、国外との比較教育に重点を置いていた私だったが、それからは台湾の教育改革に目を向けることにし、2003年台湾大学の黄光国教授らと共に「教改萬言書」を書し、また「誰捉弄了台灣教改?」も書き綴った。2005年から2006年は志を同じくした友,団体と共に16回にも及ぶ教育改革総合健康診断フォーラム(リンク:http://163.20.78.133)を開き、台湾の教育改革について討論しました。2007年にはハーバード大学を訪問。その間数十ヶ国にも及ぶ教育改革を研究し、台湾教育の未来について模索した。私は、よく雑誌や新聞で自分の台湾社会に対する考えを記載している。また毎週教会を訪問し、台湾の教育の成功を祈祷している。